明和徒然日記

第3回 戦争と海運

「おともだちが持っているものほしいとか、その子がきらいだからといって、たたいたり、いじわるしたりしてはいけません。」
幼稚園の先生が園児に言い聞かせるような話だ。
そっくりそのまま、いくつかの国々の為政者たちに聞かせてやりたくなる。
それほど未だに世界の各地で領土やイデオロギーの対立などから起こる戦争や紛争が後を絶たない。

身内の話で恐縮だが、私の父方の曽祖父は日露戦争に出征して亡くなった。
曾祖母はやむにやまれず娘(私の祖母)を連れて別の家へ嫁いだという。
まだ幼い少女だった私の祖母は父親を亡くした悲しみの上に連れ子として新しい家庭に入り、どんなにか心細い思いをしただろう。
私の母の三人の兄のうち二人は徴兵されて太平洋戦争で亡くなっている。
私達の前では気丈だった母が涙を流している姿を生前に一度だけ見たことがあるが、それはテレビで南方戦線のドキュメンタリー番組が流れていた時だった。
おそらく戦地で亡くなった兄さんたちの事が思い出されたのだろう。
また、たとえ戦地ではなくても、私の父や伯母たちは本土空襲の際に遺体の転がる道を焼夷弾から必死に逃げまわったという。
私などには想像すらできないような恐怖や悲しみを経験しているはずなのに、誰もが思い出したくないからか、あまりそのような話はせずに、また私の方も何となく遠慮があって詳しくは聞けないうちに皆、鬼籍に入ってしまった。

海運業は平和であることが事業を行う上での大前提である。
そんなこと当たり前すぎて普段は考えもしないが、先の大戦中には多くの民間船舶が徴用されて兵員や物資、燃料などの輸送に従事していたという事実がある。
僅かな護衛しか付かない民間船舶は潜水艦の恰好の標的となり、約6万人もの民間船員が船と運命を共にした。
死亡率は海軍軍人の2倍以上の約43%だったというから凄まじい確率である。
更には女性や子供も含む多くの民間人が乗った疎開船でさえ犠牲になっている。
例えば、沖縄から九州に向かう学童疎開船「対馬丸」は鹿児島県の悪石島近海で、シンガポールから内地に向かう貨客船「阿波丸」は台湾海峡で、それぞれ潜水艦の魚雷攻撃を受け、対馬丸は約千五百人、阿波丸は約二千人もの方々が犠牲になっている。

幸いなことに日本は80年近く戦争を経験していない。
既に戦後生まれの世代が社会の大部分を占め、戦争の悲惨さもどこか他人事のようにしか感じられなくなっている。
しかし忘れてはならない。
当たり前の日常、尊い命を奪う戦争は絶対にしてはならないと。
昨年、数少ない対馬丸の疎開児童の生存者で、沖縄で語り部を務めていた平良啓子さんが88歳でお亡くなりになったという新聞記事を読んだ。
心からご冥福をお祈りしたい。

阿波丸事件受難者之碑(東京都港区 増上寺境内)

写真:阿波丸事件受難者之碑(東京都港区 増上寺境内)

(筆者:営業部 佐藤兼好)