船乗り達のみちしるべ

Vol.21 水島(みずしま)

今回は水島をご紹介いたします。
水島は岡山県倉敷市にある行政地域区分の名前であり、倉敷市の南部に位置 する瀬戸内海に面した日本有数の石油コンビナートを擁する一大工業地帯です。

JR倉敷駅に隣接した水島臨海鉄道倉敷駅から一両編成のディーゼル列車に揺られて30分ほど南に下ると、水島臨海工業地帯の玄関口である水島駅に到着します。
水島駅付近には民家やスーパーマーケット、ホテル等があり水島地区の中心市街地となっていますが、ここから南側には広大な工場地帯が広がっています。
この付近の土地は近代になってから干拓、埋め立てで造成された比較的新しい土地であり、市内中心部の倉敷駅南側が美観地区として有名な、数々の歴史的 建造物が立ち並ぶ古い地区であることと対照的です。

実は近世の時代まで倉敷の港は倉敷駅のすぐ南に位置する現在の船倉町付近にあり、また高梁川(たかはしがわ)の河口は現在の山陽本線よりも更に北側に位置する船穂町付近でした。
しかし、江戸時代の五大老の一人であった宇喜田秀家の始めた干拓事業によ り南へ南へと徐々に土地が広がっていきました。
現在の倉敷市内に連島、児島、玉島など島という字の付く地名が多いのは、かつては文字通り島だったところが干拓により地続きになったたことを物語っており、開発された時代が古いか新しいかの違いだけで倉敷市の多くの部分が干拓によって広がってきた土地なのです。
時代は下り、明治から大正にかけて市内を流れる東西の高梁川の改修工事が行われました。
東高梁川は廃川となり、後にその跡地には現在の水島臨海鉄道が敷設されました。また西高梁川は残されて現在の高梁川となっています。
そして廃川となった東梁川の河口廃河川敷を干拓してつくられた新しい土地 が現在の水島なのです。
当初はこの土地には地名が無かったのですが、源平の水島の合戦が行われたという水島の海を干拓して出来た土地である事から水島と名付けられました。

源平水島合戦の碑
源平水島合戦の碑
画像提供 岡山県倉敷市

その後1943年に第二次世界大戦中の工業分散策により三菱重工業の航空 機製作所岡山工場が設置されたのが、水島が重工業地帯として発展する最初の一歩でした。
後に当工場は水島航空機製作所と改名され、工場の周辺には関連施設や関連企業が集まり、更に郵便局や商店などにも水島の名前を冠したものが増えていき、次第に水島という地名は定着していきました。

ところが、旧日本海軍の一式陸攻(陸上攻撃機)や紫電改(局地戦闘機)を生産していた三菱重工製作所水島工場並びにその周辺は太平洋戦争末期の1945年6月22日に軍需産業を標的とした米軍の大空襲を受けました。
たまたま空襲の当日は工場の休日でしたが、11名の工場従業員並びに近隣 住民数名の尊い命が奪われ、工場の建物や施設は壊滅的打撃を受けたのです。

 空襲を受けた三菱重工業(株)水島航空機製作所
空襲を受けた三菱重工業(株)水島航空機製作所
出典「水島の戦災」
提供 岡山県倉敷市

しかし、このような大打撃を受けた同工場ですが戦後の1946年にオート三輪「みずしま号」の生産を開始して再スタートを切りました。
これが現在の三菱自動車工業です。
その後、戦後の産業の重工業化に伴い、石油精製所、石油化学メーカー、ガス 会社、電力会社、製鉄所、造船所等々の数々の重化学工業が次々に集まり、水島は一大臨海工業地帯として発展を遂げてきたのです。
そして、瀬戸内海を経由して種々の重化学工業の原料や製品を輸送するために港湾の整備も進められ1962年には10万トン級の貨物船が入出港出来る水島港として正式に開港しました。

当社では、日本各地から水島地区の石油化学工場や石油精製所にケミカル製品を運んだり、逆に水島地区から各地に出荷したりしています。その輸送範囲は広範囲にわたり、阪神地区、京浜地区、四国地区は勿論ですが、遠く東北地区から もケミカル製品の輸送を行っています。

漁業と干拓農業を細々と行っていた一寒村に過ぎなかったこの地は、干拓により徐々に面積を広げ、航空機製造工場があったため空襲により一度は灰燼に帰したものの、戦後の人々の不断の努力により船舶の入港回数が年間で約3万3千回と横浜港や神戸港を上回る入港回数日本一を誇る一大工業地帯へと発展 を遂げたのです

水島コンビナート全景
水島コンビナート全景
©岡山県