船乗り達のみちしるべ
Vol.27 下関・彦島・巌流島(しものせき・ひこしま・がんりゅうじま)
今回は下関および同市内の彦島、巌流島をご紹介します。
本州の最西端、下関といえば明治時代に時の総理大臣、伊藤博文が豊臣秀吉の時代以来禁止されて来た本格的フグ料理を初めて食し、これが大変気に入ったため他県に先駆けて山口県をフグ料理解禁の県にしたため多くのフグ料理の料理人が集まりフグの町として全国的に有名になりました。
しかしそれだけではありません。下関はフグ以外にも様々な歴史上の有名な出来事の舞台になってきた街なのです。
※地元ではフグは不遇を連想させることから福を連想させるフクと呼んでいる
まずは1185年の壇ノ浦の戦いです。安徳天皇を頂く平家が源氏の勢力に追い詰められて瀬戸内海を西へ西へと逃げ延びて、最後に関門海峡の中でも最も狭く最も潮流が強い早鞆の瀬戸で滅亡した壇ノ浦の戦い。
平清盛の妻、平時子は幼い安徳天皇を抱いて「波の下にも都はございます」という言葉と共に入水しました。わずか8歳で亡くなった安徳天皇の霊を慰め鎮めるために後鳥羽天皇の命により建てられた御影堂は後に阿弥陀寺となり、明治時代に赤間神社となったのですが壇ノ浦を望む小高い場所に建てられたこの神社はまるで波の下の都の竜宮城を思わせるような朱色の水天門を構えています。

「武蔵遅い!」「小次郎敗れたり!」のセリフで有名な宮本武蔵と佐々木小次郎が雌雄を決した巌流島の決闘は江戸時代初期の1612年の出来事です。
決闘の舞台である巌流島は船の形に似ていたという事から正式名称を船島(ふなしま)という下関市の本土から僅か200メートルしか離れていない小さな島です。現在では島の形は埋め立てによって大きく変わっていますが島の約半分が公園として整備されています。
砂浜には武蔵が島に渡る際に乗ってきた小さな手漕ぎ船のレプリカが置かれており、砂浜から上がった関門海峡を一望する小高い芝生の丘には武蔵と小次郎の像が建てられていて、その時の決闘の様子をうかがい知ることができます。

更に時代は下り江戸時代末期の1863年には長州藩がイギリス、フランス、オランダ、アメリカの4か国と戦った下関戦争がありました。
長州藩は攘夷を掲げて関門海峡を通過する外国船に対して砲撃を行なっていました。それに対して列強4国は翌年、連合艦隊を組んで下関で報復攻撃を行い、圧倒的な軍事力の差により長州藩は敗れました。この敗北により長州藩は一転して開国派に転じて薩摩藩と薩長連合を組んで明治維新という我が国の歴史上の一大分岐点において重要な役割を果たすこととなったのです。

そして明治時代以降、下関は石油化学や精錬、造船などが盛んになり現在に至るまで海峡を挟んだ対岸の北九州市と一体となって北九州工業地域の一角として我が国の重化学工業をささえてきました。
※北九州工業地域に関連するトピックは「船乗りたちの道しるべVol10.洞海湾」でもご紹介しています。
当社のケミカルタンカーは下関市の西の端に位置する彦島という小さな島にある石油化学工場において液体ケミカル製品を搬入したり搬出したりしています。彦島は島ではあるものの本土との間を結ぶ橋は一番短いところで僅か10メートル程しかなく、また鉄道橋を含めて4本の橋で本土と結ばれているので、島という感覚は殆どなく、まるで地続きのような感じになっています。そのためここで生産された各種石油化学製品はケミカルタンカー以外にもタンクローリーやドラム缶で各地に運ばれています。

また当社がオペレーションしているケミカルタンカーの内の一隻はこの彦島にある造船所で定期修理を行うなど、当社にとっても縁の深い島です。
海上交通の要衝、関門海峡を望む本州最西端の街、下関はさまざまな歴史に彩られたフグ料理とそして重化学工業の街なのです。

















