船乗り達のみちしるべ

Vol.26 徳山下松港と回天の島、大津島

今回は徳山下松港と回天の島大津島(とくやまくだまつこうとかいてんのしまおおづしま)をご紹介いたします。
徳山下松港は山口県の東部の周南市、下松市、光市にまたがる国際拠点港湾であり、瀬戸内工業地域の一角を占めるコンビナートや近隣の工場群と各地を結ぶ一大工業港です。

ところで周南市といってもピンとこない人がいるかもしれません。
実は筆者もそうでした。というのも周南市というのは旧徳山市、旧新南陽市、旧熊毛町、旧鹿野町の2市2町が2003年に市町村合併によって誕生した比較的新しい名前です。
しかもこの「周南」という地名は古くからある固有の地名ではなく「周防の国の南部」という意味の造語で、公募によって採用された名前なのです。だからまだ広く一般に浸透するには至っていないのかもしれません。
更にJRの駅名は従来通り「徳山駅」のままであるため筆者のような県外の人間にとっては徳山という名前がいまだに印象強く残っており、実際に現在でも旧徳山市近辺が周南市の中核エリアとなっています。

周南市の玄関JR徳山駅(周南市立駅前図書館が併設されている)
周南市の玄関JR徳山駅(周南市立駅前図書館が併設されている)

徳山下松港の歴史は、江戸時代に長州藩のいわゆる三白政策により、徳山の地に米、塩、紙を商うための港が開かれたのが始まりです。
※三白政策とは関ヶ原の戦いに敗れた後に中国地方全域から周防・長門の2か国に減封された毛利氏が厳しい財源の中、米に加えて塩、紙の生産を奨励した政策。全て白い生産物のため三白と呼ばれた。後に蝋を加えて四白政策となった。

その後、近代に入り、この地に明治37年に海軍煉炭製造所(後の海軍燃料廠)が設置されたのをきっかけに各種の工場や造船所など多くの企業が集まり始めました。この海軍燃料廠は呉の軍港を出港した艦船が燃料補給をして外洋に出ていく拠点であり、太平洋戦争末期にはあの戦艦大和が二度と帰還しないことを意味する片道分だけの燃料を給油して沖縄へ向けて最後の出撃をした港でもあります。

また一般的にはあまり知られていないかもしれませんが徳山下松港の沖合約9キロに浮かぶ大津島には、不利な戦局を打開するため人間が乗り込んで敵艦に体当たりをする特攻用人間魚雷「回天」の訓練基地がありました。
筆者がこの地を訪れた日は、まるで当時の若者たちの苦しみや悲しみを暗示するかのような暗く重苦しい雲が空一面に広がる天気でした。というのも当時20歳前後の多くの若者がこの島をはじめとする数か所の訓練所で厳しい訓練を受け、そして145名もの人が帰らぬ人となったのです。
今でも大津島には回天の発射訓練基地の遺構があり、港を見下ろす小高い山の中腹には戦後に設置された回天記念館があります。そこには回天の実物大のレプリカや搭乗員たちの遺影や遺品、遺書などの展示物が数多く展示されています。
その中の一つに終戦の直前に出撃して戦死した18歳の搭乗員が残した遺書があります。そこには両親に向けての感謝の気持と、幼い妹に向けてひとことだけ「私は海です」と記されていました。「自分は海で死ぬけれども兄ちゃんは海になったと思って悲しまないでほしい」という気持ちを綴ったものだと思われ、この遺書は筆者の胸に深く突き刺さりました。
物言わぬこれらの展示品は戦争の悲惨さと同時に平和の尊さを現代に生きる私たちに静かに語りかけているのです。

回天記念館前に設置されている回天(レプリカ)と回天碑
回天記念館前に設置されている回天(レプリカ)と回天碑
大津島の南側に今なお残る回天訓練基地跡
大津島の南側に今なお残る回天訓練基地跡

徳山港は戦後の昭和23年に下松港を編入して現在の徳山下松港となります。
その後、出光興産の創始者である出光佐三氏が旧海軍燃料廠のタンクの底を浚って、昭和32年にこの地に出光興産徳山製油所を開設した話は映画化もされた小説「海賊と呼ばれた男」で広く知られるところとなりました。
この出光興産徳山製油所と前後して、この地区の石油関連産業は戦後復興の好景気の波に乗り発展して行き、現在の瀬戸内工業地域の一角をなす周南工業整備特別地域として現在に至っています。そして、当社のケミカルタンカーも京浜地区、中京地区、阪神地区、更には九州、四国地区と全国各地の石油化学工場やタンクターミナルと徳山下松港を結んで各種石油化学製品を輸送しています。

大津島に渡るフェリーから見た徳山下松港。様々な船舶が停泊している。
大津島に渡るフェリーから見た徳山下松港。様々な船舶が停泊している。

周りを陸地に囲まれた瀬戸内海の中でも更に半島と島によって周囲を囲まれた地形の徳山下松港は昔からの天然の良港です。それ故に戦争の悲しい過去をも背負うことにもなったのですが、徳山下松港は戦争の痛手を乗り越えて戦後に目覚ましい産業の発展を遂げた周南工業整備特別地域の海の玄関口として現在まで栄え続けて来たのです。