船乗り達のみちしるべ

Vol.5 潮岬(しおのみさき)

今回は潮岬をご紹介いたします。 潮岬と書いて「しおのみさき」と読みます。和歌山県串本町に属し、紀伊半島の南端であると同時に本州最南端の地でもあります。
岬の先端部は望楼の芝(注:明治27年に海軍の望楼(監視所)が作られたことから名付けられた。)という広い芝生の広場が広がっており、潮岬観光タワーに上れば水平線がカーブして見えるため地球の丸さを実感することができる場所として観光客に人気のスポットです。

しかし、同時にここは日本屈指の台風の通り道に位置している台風銀座でもあり、テレビのニュースなどで潮岬からの台風実況中継をご覧になったことのある方も多いと思います。

また、「潮の岬」と名付けられるほどですので、潮流が強いことは想像に難くありません。実際に潮岬の沖には南極還流やメキシコ湾流と並ぶ世界最大規模の海流である日本海流(黒潮)が流れており、最近ではこの黒潮の強い流れを利用した世界初の海流発電の計画が東京大学やIHI、東芝などの産学協同のプロジェクトとして始動しているほどです。

潮の流れが強く、台風の通り道、また、たとえ台風ではなくても普段から風の強い岬であることからこの付近は昔からの海の難所でした。
古くより上方と江戸を往来する菱垣廻船や樽廻船は言うまでもありませんが、近代になってからも多くの尊い人命が犠牲になった悲しい歴史的事件が潮岬の付近で起こっています。

1886年10月、日本人乗客25名と貨物を積んで横浜から神戸に向かっていたイギリスの貨物船が暴風雨により座礁、沈没しイギリス人とドイツ人の乗組員26名が救命ボートで脱出して全員生還したにもかかわらず日本人乗客25名は船中に取り残されて全員が溺死するという事件が起こりました。
このことをきっかけに当時の日英の不平等条約撤廃の機運が高まる事となりその船名から「ノルマントン号事件」として歴史に残っています。

そのわずか4年後の1890年9月にはオスマン帝国海軍の軍艦が訓練航海兼親善訪日の帰路の途中で折からの台風の強風により樫野崎に座礁、沈没した結果、乗組員600人以上が海に投げ出され587名が死亡または行方不明、生存者は僅か69名という大惨事「エルトゥールル号遭難事件」が起こりました。
この時、遭難を知った樫野の村人は総出で遭難者の救助にあたり、また69名の生存者を手厚く保護しました。その後に日本政府は海軍の軍艦2隻で生存者をイスタンブールまで送り届けたのです。

この事件をきっかけとしてオスマン帝国と日本には特別な友好関係が生まれ、その関係はオスマン帝国からトルコに変わっても受け継がれます。
エルトゥールル号遭難事件から約100年後の1985年、イラン・イラク戦争時にイラクによる航空機無差別攻撃のタイムリミットまでにテヘラン在留邦人の脱出用救援機を用意できなかった日本政府に代わりトルコ政府が自国民よりも優先して日本人救出用に2機のトルコ航空機を飛ばして、無差別攻撃開始の寸前に戦火のテヘランに取り残された日本人を救出してくれたほどです。

時は流れ、現代でも日本の物流の大動脈である京浜・中京と阪神・瀬戸内・九州を往来する船舶の航路上に位置する潮岬沖には毎日多数の船舶が航行しています。
当社がオペレーションするケミカルタンカーも頻繁に上記の区間を往来しているため、毎日のようにいずれかの船舶が潮岬沖を航行しています。しかし時として船長から「だめだ、潮岬をかわせない!本船はこれより串本に避難します。」というような避難通報を受けることがあります。

紀州灘と熊野灘が接する潮岬沖は強い海流や複雑な風により陸上の人々が想像する以上に厳しい気象、海象に見舞われているのです。
もちろん当社では定められた運航基準に抵触するような気象、海象になると、無理に航行を継続する事は認められません。そのような場合には近くの避難可能な港で運航再開できるまで天候が回復するのを待つ以外にありません。

日本の東西を結ぶ海の大動脈上に位置する潮岬の沖では、現代でも海の男たちが昼夜を問わず強風や強い潮の流れと戦っているのです。

望楼の芝と潮岬先端
本州最南端の碑
潮岬灯台
画像提供 串本町観光協会